『証』(神様は愛である)

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新約聖書の『コリントの信徒への手紙 一』13章4節〜13節は、私が好きな聖句です。

以下に紹介しますと、

『愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。

わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。』

 

聖書の記述には、必ず対になるものがあります。

例えば、旧約聖書『創世記』3章で、エバに善悪の知識の実を食べるよう唆した『蛇』については、新約聖書ヨハネの黙示録』20章で、『悪魔でもサタンでもある年を経たあの蛇』と書かれてあり、『蛇=サタン』だということが分かります。

このように、聖書にはその内容を分かりづらくする封印がいくつか仕組まれており、一見しただけでは意味がよく分かりません。

それでも、書かれている内容が真実だと悟る人はいます。そんな人たちは神様に導かれて真理の道を歩んでいきます。

さて、今回の私の悟りですが、おそらく皆さん既に理解していらっしゃると思います。

『今頃そんなことを悟ったのか』と、呆れられるかも知れません。

何を悟ったのかと言いますと、上記の愛に関する聖句の対になる聖句が、『ヨハネの手紙 一』の4章7節だということです。

そこには『神は愛だからです』と書かれてありました。

パウロが書いた『コリントの信徒への手紙 一』の『愛』を『神様』と読み替えると、神様の心情が理解できます。

 

『神様は忍耐強い。神様は情け深い。ねたまない。神様は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。』

 

確かに神様は、モーセに従ってエジプトを脱出したイスラエルの民たちが、神様に対して不従順な行動を取り続けても、忍耐強く、情け深く、ずっと民たちを導いてこられました。

また、その後もイスラエルの民たちは、異教徒の神を拝んだり、自分の子どもを生贄に捧げたりと、あらゆる悪の限りを尽くし、神様の名を冒涜し続けましたが、それでもすべてを忍び、耐えてきました。

もちろん、これ以上耐えきれないというレベルまで人々が堕落した場合は裁きをお与えになりますが、それは人々に『正しい方向に変わってほしい』という願いを込めてのことです。

また、私たち人間の発想では、誰かに何かをしてあげたらその見返りを要求したりするのですが、神様は私たちに救いを与えてくださっても、その見返りを要求したりはしません。

全ては、私たちに対する深い愛情のなせる術です。

 

そうです、『神は愛』なのです。

 

今までの私たちは、色々な事柄がよく分からないまま、翻弄されながら生きてきました。まさに、『鏡におぼろに映ったものを見ている』状況でした。たくさんの人が現代の世相について、『幼子のように』自分の考えをああでもない、こうでもないと論じていました。

しかし、今は『はっきり知られているようにはっきり知ることになる』ようになりました。

この日本を支配しているのが上級国民であること、その支配は政界から芸能界まで、幅広く行われていること。

支配者層がみんな血縁関係であり、出自が朝鮮半島や大陸の『在日』がとても多いということ。諸悪の根源は天皇であり、天皇が悪魔を崇拝していることなど。

https://rapt-neo.com/?p=13489

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信仰を守り、希望を持ち続け、最も大いなる愛、つまり神様を信じて祈りを捧げることが、私たちに求められていると思います。

最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。