『悟り』(旧約聖書『イザヤ書』を読んで その1)
2020年を迎え、この世界では思いもよらないことが次々と起こっています。
コロナパンデミックに始まり、外出自粛要請、緊急事態宣言と続きました。
テレビをつけると、不安を煽るようなニュースがこれでもかと繰り返されています。
不要不急の外出を控えるよう政府から要請が出ていますので、このゴールデンウィークも、恐らく例年に比べて人通りは少ないことでしょう。
私の地元、長崎県は観光業に携わる方が多いですので、人の流れが途絶えることはまさに死活問題です。
しかし、政府の対応は国民にマスクを2枚送付するとか、的外れも甚だしいことしかできていません。しかもそのマスクに髪の毛や虫が混入していたり、果てはカビが生えたマスクもあったりしたそうです。
https://mainichi.jp/articles/20200421/k00/00m/040/185000c.amp?__twitter_impression=true
また、国民に一律10万円支給が決まったそうですが、麻生太郎は『手を上げた人に支給する』と発言するなど、一律支給の意味すら理解していません。
支給開始も『5月下旬から6月』という話があり、それまでに会社が倒産したり、生活苦で自殺したりする人が出ないか心配です。
広島県知事は県職員に支給された10万円をコロナ対策の資金源に活用すると表明しています。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200421-00010007-chugoku-soci
世の中の仕組みががらりと変わってしまいました。日々の生活がままならない状況になっています。このような、まさに天変地異と言えるような事態になった原因は何でしょうか。また、私たちはこれから何をどうすればいいのでしょうか。
私はその答えを『旧約聖書』に見つけました。
聖書は、神様との契約について書かれた書物です。『旧約』とは『古い契約』という意味です。
人々がまだ知恵も知識もない時代、神様が人々を導き育てていくために交わしたさまざまな契約について書かれています。
私の手元にある聖書では700ページを超える量ですが、アダムとエバの話から始まり、各時代に現れた預言者たちを通して、主にイスラエルの人々に対して神様が語られたたくさんの御言葉が記されています。
イスラエルの人々は、その先祖がノアに、果てはアダムに連なります。
ノアの時代、世の中は悪が蔓延っていました。人々は心の中に常に悪心を抱き、不法に満ち、堕落していました。
神様は、人々のこのような状況を見て心を痛め、嘆き悲しんでおられました。
自分が創造した人間が、このように悪い心を持つようになってしまったので、神様は人類を創造したことを後悔し、人々をこの地から拭い去ろうと決心なさいました。
しかし、そんな世の中にあっても、ノアとその家族は無垢な心を持ち、神様に従う日々を送っていました。
神様はノアとその家族を救うことを決心し、箱舟を作らせたのちに洪水を起こされました。
神様はノアの子孫、アブラム(のちのアブラハム)と契約を結び、子孫が増えることを約束なさいました。
そして、アブラハムの子孫、ヤコブを祝福し、彼をイスラエルと名づけ、その子孫の繁栄を約束なさいました。
その後、神様はずっとイスラエルの子孫たちを手厚く守り、時代ごとに預言者を立て、イスラエルの人々に神様の御言葉を伝え、導き育ててきました。
しかし、人々は神様を軽んじ、反逆を繰り返してきました。
例えばモーセの時代、神様の言葉を聞くためにモーセがシナイ山に登っている間に、神様を信仰せずに黄金の牛を作って崇拝したりしています。
キリスト教では、人の手が作った、動きもしない、呼吸もしない像を神様として拝むことを『偶像崇拝』といい、大きな罪にあたります。
その様子を見たモーセが、人々の罪を裁くために、神様との契約が書かれた石版を割ったのは有名な話です。
神様は忍耐強く人々にずっと寄り添い、導いてこられましたが、とうとう愛想を尽かされ、エルサレムとそこに住むイスラエルの人々に裁きを与え、国を滅ぼし、人々を捕囚としてバビロンに引き渡しました。いわゆる『バビロン捕囚』です。
今回紹介する『イザヤ書』は、その頃に書かれた書物です。内容を一部紹介します。
『ぶどう畑の歌』
わたしは歌おう、わたしの愛する者のために
そのぶどう畑の愛の歌を。
わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。
よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。
その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り良いぶどうが実るのを待った。
しかし、実ったぶどうは酸っぱいぶどうであった。
さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ
わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。
わたしがぶどう畑のためになすべきことで
何か、しなかったことがまだあるというのか。
わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに
なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。
さあ、お前たちに告げよう
わたしがこのぶどう畑をどうするか。
囲いを取り払い、焼かれるにまかせ
石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ
わたしはこれを見捨てる。
枝は刈り込まれず
耕されることもなく
茨やおどろが生い茂るであろう。
雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。
一見すると難解で、何を言いたいのか分かりづらいと思いますが、聖書は比喩が多用された書物です。
知恵も知識もない当時の人たちに、神様の高度な知恵や知識を少しでも理解させるには、たとえ話を用いるのが有効だったのです。
ここに書かれている『ぶどう畑とぶどう』は、『エルサレムと、そこに住む人々』のたとえです。
神様はおよそ140億年前に宇宙を創造し、46億年前に地球を創造なさい、そして人類を創造なさいました。
神様はどこまでも豊かな愛情をもち、私たちに愛を注いでくださいます。
それは、私たちの肉体が滅んだ後、私たちの霊を天国に招き入れ、神様と永遠の愛の世界を成していくためです。
いえ、あの世だけの話にとどまりません。神様はこの地上に天国を作りたいと願ってらっしゃるのです。
しかし、神様は私たちと同じく感情をお持ちですので、私たちが神様に対して無礼な行いをしたり、軽んじたり、悪を行ったりすると悲しまれます。
私たちの行いが余りにもひどい場合はお怒りになり、私たちに裁きを与えられます。
神様は清い存在ですので、悪を行う私たちの汚れた霊を近づけることができないのです。
神様が裁きを下されるときは、人々に神様の存在に気づかせ、悪を行わずに善に立ち返り、罪を悔い改めて清くなり、天国に入れるようになって欲しいという願いが込められています。
その証拠に、神様は裁いて終わりという方ではありません。
前述のバビロン捕囚の後も、捕囚の民をエルサレムに帰還させ、再建させてくださいました。
もっとも、そのエルサレムの人々が、救世主キリストを殺すというとてつもない大きな罪を犯したために、神様も愛想を尽かされて、エルサレムを滅ぼされました。
話をイザヤ書に戻します。
『よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。
その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り良いぶどうが実るのを待った。』の箇所は、神様がこれまでエルサレムと、そこに住む人々に対して注いできた愛情の大きさをたとえています。
『しかし、実ったぶどうは酸っぱいぶどうであった。』とは、神様が手厚く愛情を注いできたのに、人々が背き、悪の限りを尽くし、救いようのないほど心が汚れきったことを表しています。
『わたしがぶどう畑のためになすべきことで
何か、しなかったことがまだあるというのか。
わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに
なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。』は、神様の行動には絶対予定と相対予定があることを告げています。
『人々に愛を注いで導く』ことは、神様が確実に行ってくださいます。これを『絶対予定』といいます。
しかし、その愛を受けた人々がどう行動するかは、私たち一人一人にかかっています。これが『相対予定』です。
当時のエルサレムの人々は、神様の愛を受けていたのに神様が望まれるような清い霊を手に入れることなく、悪の限りを尽くしていたのでしょう。その結果、神様は裁きを下されます。
『さあ、お前たちに告げよう
わたしがこのぶどう畑をどうするか。
囲いを取り払い、焼かれるにまかせ
石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ
わたしはこれを見捨てる。』
『囲いを取り払い』とは、エルサレムの都を守る城壁を破壊するということです。当然、外敵が侵入してきます。都は『焼かれるにまかせ』『踏み荒らされるにまかせ』られるでしょう。しかも、神様は『見捨てる』とおっしゃっていますので、これは間違いなく実行されるということです。
皆さん、この状況は、現代に似ていると思いませんか?
ここでいう『神様』とは、日本の『八百万の神』ではなく、キリスト教の神様、唯一絶対の存在です。
日本の神道で祀られている神は、実は西洋やインドなどで崇拝されてきた悪魔が、名前を変えて伝来しているものがほとんどです。
上記リンク先にあるとおり、スサノオは別名牛頭天王と呼ばれています。牛の頭を持つ悪魔、バアルと同じ悪魔です。
牛と言えば、この記事でモーセに触れましたが、人々が拝んでいた黄金の牛は、バアルだったのでしょう。だからモーセは、いえ神様は激怒なさったのです。
(続く)