『箸休め』(原爆の嘘について その4)
今回の記事の内容は、主に『原爆の嘘について その3』の補足になります。
https://jigemon2019.hatenablog.com/entry/2020/11/29/085437
『原爆の嘘について その3』では、長崎の原爆投下の背景には秦氏と出雲族の争いがあったことを書きました。
そして、第二次大本事件の関係者だった永野若松(当時の長崎県知事)の殺害を狙い、原爆投下目標を長崎とするように出口王仁三郎が働きかけたという記事を書きました。
しかし、まだはっきりしていないことがありました。
長崎の原爆投下に関しては、県知事だった永野若松が関係しているのだろうと思いますが、広島に関しては、いくら調べても当時の県知事だった高野源進の名前は出てきません。
永野も高野も内務省出身なので、高野が第二次大本事件に関わっている可能性はあるのですが、内務省出身の県知事は他にもたくさんいます。
行き詰まりを感じていましたが、いろいろなサイトを見ていると、高野源進の前任の県知事と、当時の広島市長に行き着きました。
高野源進の前任者は同じく内務省出身の大塚 惟精(おおつか いせい)といいます。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/大塚惟精
大塚の妻は上原勇作の娘です。上原勇作は薩摩藩の出身で陸軍軍人でした。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/上原勇作
1920年、原内閣はシベリア出兵からの撤兵を閣議決定します。
これは上原の部下であり、当時の陸軍大臣だった田中義一(長州藩出身)の了承があっての決定でした。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/田中義一
これに対して、当時参謀総長だった上原は、『内閣と陸軍省が参謀総長に相談なく、天皇の裁可も得ずに独断で決定した』として拒絶しました。
これにより、以前からギクシャクしていた田中義一と上原勇作の対立が決定的となりました。
二人が争った背景には、江戸時代末期から続く薩摩藩と長州藩の争いがあったのかも知れません。
前述の大塚は1927年に石川県知事に就任しますが、勤務1日で退任しています。
実は、大塚が石川県知事として赴任する直前に、義父の上原勇作と対立関係にあった田中義一が内閣総理大臣に就任したのです。
大塚は田中の下で働く事を嫌悪したため、1日で石川県知事を辞任したという説があるそうです。おそらくその通りでしょう。
以上の点から、大塚は田中義一率いる陸軍と敵対関係にあったと思われます。
大塚は1945年6月に県知事を退任し、広島市に新設された中国地方総監に転じました。そこで被爆し、絶命します。
ちなみに、高野源進は原爆投下時は出張中で、被爆を逃れています。
話は変わりますが、原爆投下時の広島市長は粟屋 仙吉(あわや せんきち)と言います。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/粟屋仙吉
粟屋も同じく内務省官僚ですが、警察部長などの勤務を経て1942年に隠居しています。
その粟屋に広島市長職に就くよう懇願したのが当時の大蔵大臣、賀屋 興宣(かや おきのり)でした。
(坂上二郎に似ているような…)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/賀屋興宣
賀屋は戦後、A級戦犯として巣鴨プリズンに収監されますが、岸信介同様、いわゆる『逆コース』で釈放されます。釈放後は日本遺族会を結成したり、大蔵大臣として岸信介の経済顧問などを歴任したりしました。
また、日米安全保障条約の改定や自民党政調会長などを務め、タカ派の政治家として有名だったそうです。
賀屋は岸信介とともに活動していますし、石原慎太郎は賀屋のことを『尊敬する政治家』と絶賛しています。
これらのことから、賀屋の人間性が窺い知れるというものです。
一方、広島市長に任ぜられた粟屋ですが、1932年に大阪府警察部長の職に就いています。
赴任の翌年、つまり1933年に大阪で『ゴーストップ事件』か起きました。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ゴーストップ事件
要約すると、信号機(ゴーストップ)を無視して交差点を横断した陸軍一等兵を巡査が注意し、殴り合いの喧嘩に発展したという事件です。
粟屋は陸軍に対し、『警察が陳謝する必要はない』と発言。問題が軍部と内務省との対立に発展する様相を示しました。
最終的には天皇の特命で事態は収拾されましたが、この事件で粟屋は陸軍と対立しています。
隠居していた粟屋は、前述の賀屋により1943年に広島市長に任ぜられています。もしかすると、粟屋を原爆で殺害する目的があったのかも知れません。実際に粟屋は広島原爆で即死しました。
こうしてみると、広島原爆は元広島県知事で当時の中国地方総監だった大塚と、当時の広島市長だった粟屋を殺害する目的もあったと思います。大塚も粟屋も内務省の出身で、陸軍と敵対関係にありました。
つまり、同じ秦氏側とはいえ、陸軍と内務省に対立関係があったということです。
しかし、イルミナティの連中にとって、内部対立はごく当たり前のことです。
そのため、寝返りや裏切りは日常茶飯事のことでした。
また、『原爆の嘘について その2』でも書きましたが、広島原爆の爆破地点は広島城だったという説があります。
https://jigemon2019.hatenablog.com/entry/2020/11/22/133142
ラプトさんのinstagramにもありましたが、原爆は日本人が地上で起爆しました。
https://www.instagram.com/tv/CIZ0uIaFUPE/?igshid=1vmjor8fy5t7c
実際、第二次世界大戦時に陸軍が原爆開発の研究をしていた記録が残されています。
https://news.yahoo.co.jp/articles/ca890afbd1eb98073cff088982e911e80f285639?page=2
つまり、広島の原爆は日本製だった可能性が大いにあります。
それに対して、長崎に落とされた原爆はアメリカ製だったと思われます。
おそらく日本海軍がアメリカから入手して、長崎市の中央を流れる浦上川沿いに上流まで運び、三菱の兵器工場そばで爆発させたのだと思います。
同じアメリカで開発されたとされる広島と長崎の原爆が、形状があまりに違いすぎるのが引っかかっていましたが、日本とアメリカでそれぞれ開発されたとすると納得できます。
もっとも、原爆という爆弾は存在しません。あれは強力なマグネシウム爆弾です。
私怨に近い恨みを晴らすため、また、爆弾の威力を確かめるために、罪もない一般市民まで巻き添えにされたわけです。許すわけにはいきません。
隠された真実が全て明らかになりますように、祈り求め続けたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。