『フォロー記事』(ヒイズルクニとヨモツクニ その4 〜玉兎について〜)
前回の記事で金烏について書きましたが、今回は玉兎について書きたいと思います。
月と兎を結びつけたのは、中国の故事でした。
http://prometheusblog.net/2017/07/24/post-5625/
日本では、月の兎は『杵で餅をついている』と言われていますが、中国では『蛤蟆丸』という薬を作っているのだそうです。
http://prometheusblog.net/2017/07/22/post-4648/
また、兎と月に関する意外な結びつきとして、九州は大分にある『宇佐神宮』があげられていました。
https://blog.goo.ne.jp/akuto508/e/69d3a26d463082a6b75576ceaaaf25b1
『宇佐家伝承による天皇変遷の歴史』によると、以下のように書かれています。
『孝昭天皇から孝元天皇』とありますが、孝昭天皇は第5代の、孝元天皇は第8代の天皇で、いわゆる『欠史八代』の天皇たちです。
彼らは『和邇族の首長』と記述されているそうです。
神武天皇が宇佐にいたとき、菟挟津姫と結婚しています。
『菟』は『ウサギ』とも読めます。
最初は『宇佐神宮だけにウサギ?』と、半分冗談かと思っていましたが、どうやら本当に関係がありそうです。
しかも、『和邇(ワニ)』も出てきました。
ウサギとワニと言えば、『いなばのしろうさぎ』です。本題とは脱線しますが、少し詳しく見ていくことにしました。
『いなばのしろうさぎ』は古事記に出てくる物語です。リンク先であらすじを確認します。
http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=1469
『大国主命』が善人として描かれていますが、前回の記事に書いたとおり、大国主命はスサノオの子孫であり、別名『大穴持命』『幽冥主宰大神』とも言われる冥土の神、いや悪魔です。
悪を善のように言わなければいけないということは、何かウラがありそうです。
ここで、この話の原文を参照してみました。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/因幡の白兎
驚きました。確かに『菟』も『和邇』も出てきますが、赤いライン『卽伏最端和邇、捕我悉剥我衣服』…『即ち先端に伏せていた和邇が、我を捕らえて悉く我の衣服を剥いだ』…毛皮を剥いだとはどこにも書いていないのです。
しかも青いライン、白兎ではなく『素菟』。
『素顔』『素手』『素っ裸』と言いますが、『服を着ていない菟』という意味ではないでしょうか。つまり、動物ではなく『菟』という名をもつ人かも知れないのです。
しかし、『いなばのしろうさぎ』の舞台は鳥取県で、宇佐神宮は大分県です。
いくら『菟』も『和邇』も書いているといっても、あまりにも離れ過ぎています。
しかし、Wikipediaに気になる記載がありました。
『いなばのしろうさぎ』の説話が載っているのは古事記のみで、日本書紀には記載がないそうです。
各地の伝承をまとめた風土記がありますが、因幡国風土記は現存しません。
出雲国風土記には記載がないそうです。
物語の舞台が鳥取県という前提もあやしくなってきました。
もう一度九州に目を向けると…九州にも『おきのしま』がありました。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/沖ノ島
九州本土から60㎞北方に位置する『沖ノ島』です。2017年に『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群の構成資産の一つとして世界遺産に登録されています(世界遺産登録を提唱したのはエジプト考古学者の吉村作治。すでにこの時点であやしいニオイがプンプンしていますが…)。
宗像三女神のうち、沖津宮を祀っている関係か、今でも女人禁制の島だそうです(なお、2018年から、たとえ男性でも一般人は島に上陸できなくなっています)。
九州にも『おきのしま』があったのは発見でしたが、それにしても60㎞は離れ過ぎだろう…と思って隠岐島を調べてみると、こちらも島根半島から50㎞離れているそうです。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/隠岐諸島
さらにWikipediaで調べると、また興味深い記載がありました。
『いなばのしろうさぎ』の『おきのしま』は、『隠岐島』ではない可能性が出てきました。
だったら、舞台が九州というのもあり得ない話ではありません。
舞台が九州かどうかを探るために、九州に『因幡』がないか調べてみました。
ネットで検索すると、福岡市に『因幡』がありました。現在は町名変更で中央区天神となっていますが、1971年までは因幡町商店街があり、賑わいを見せていたそうです。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/因幡町商店街
現在は埋め立てにより海岸から離れていますが、1897年版の日本地図を見ると、当時は海岸沿いだったのが分かります。
ここまで調べてみて、ふと気がつきました。
私はこれまで聖書を何度か通読してきましたが、聖書の記述には『喩え』が多く用いられています。
例えば新約聖書には、死んだ人が生き返ったという記述が多く見られますが、これは信仰を見失っていた人、あるいは棄教した人が、再び信仰を得て救われたということの喩えではないかと私は考えています。
聖書はたくさんの人に読まれる書物ですが、分かる人にだけわかるように書かれているのでしょう。
その聖書とはレベルが全然違いますが、古事記や日本書紀もそういう一面があるのかも知れません。政敵は身のまわりにたくさんいるでしょうし、そういう人に気づかれないようにしつつ、分かる人にだけ真実を伝えようとしたのでしょうか。
あるいは、昔話風の物語をこじつけて、たくさんの人の目をごまかそうとしたのかも知れません。
そこで、勝手ながら仮説を立ててみました。
もともと沖ノ島にいた『菟』(おそらく一人ではなく、一族だったのでしょう)が、何らかの事情で沖ノ島を離れ、因幡に行かなければならなくなった。その際、『和邇』(これも一族ですね)の助けを借りた。
このとき、『菟』は何らかの計略を用いて『和邇』を騙して沖ノ島から因幡まで移動したのでしょう。
そして、もうすぐ因幡に到着するときになり、計略がばれて『菟』は『和邇』から制裁を受けた。衣服が剥ぎ取られたのは、財産や宝物まで奪われたということの喩えかもしれません。
そこに、大国主の兄たち八十人の神がやって来ます。『八十人』というのは、『八百万(やおよろず)』と一緒で、『たくさんの』といった意味でしょう。
彼らはおそらく、『菟』の計略と、その失敗について『和邇』から聞いていたのでしょう。『菟』に対してさらにひどい仕打ちを行います。
遅れてやって来た『大国主』に『菟』は助けを求めます。『菟』は助けてくれた大国主に感謝し、八上比賣と大国主が結ばれると予言します。
最初にリンク先を載せた『宇佐家伝承による天皇変遷の歴史』にも、似たような記述がありました。
先に『いなばのしろうさぎ』の原文を掲載しましたが、『素菟』は大国主が八上比賣と結ばれると予言して『菟神』となりました。
菟神?うさじん…宇佐神宮?
前述のとおり、神武天皇が宇佐にいたとき、菟挟津姫と結婚しています。
対して『和邇族の首長』は、いわゆる『欠史八代』の天皇たちでした。
https://tokyox.sakura.ne.jp/wordpress/出雲、紀伊、大和の出雲系/
『いなばのしろうさぎ』の話は、秦氏と出雲族の争いを伝えていたのかも知れません。
なお、私の仮説と似た説を、哲学者の梅原猛も唱えていました。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/梅原猛
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=261573
梅原猛は『菟』が沖ノ島を離れなければならなかった理由を、『白村江の戦い』に求めています。
『白村江の戦い』は、ラプトブログによると秦氏と出雲族との大きな戦いでした。
白村江の戦いに負けた秦氏が、日本に戻って壬申の乱という古代日本最大級のクーデターを起こし、出雲族から勢力を奪還したのです。
この仮説は案外真相をついているのかも知れません。
『玉兎』の話からかなり脱線しましたが、今回調べてみて『チュルク族』が『カタカムナ』に繋がることが分かりました。
どんどん広がってきていますが、悪魔崇拝に関する書物や文献がほぼ全て陰陽道に繋がってくることに驚いています。
今回はここまでにしたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。