そして、今がある。(その7)

前回までの内容で、私が救われた経緯を書いてきました。

以前の私は、記事に書いたとおり高慢で、そのくせ自分では何もしない、いや、できないことを誤魔化すために何もしようとしていなかったと思います。

例えて言えば、とても傷つきやすいガラスのハートがあって、その周りをとても高いプライドの壁が覆っているような感じでしょうか。

プライドの壁の隙間からガラスのハートを攻撃されるのが怖くて、自分の弱さを見せられず、周りに対して高慢に振る舞っていたのかも知れません。

このブログをお読みの皆さんの中にも、ひょっとするとそういう方がいらっしゃるかも知れませんね。

そのため、毎日いろいろなことが不安でした。

ガラスのハートが傷つけられるんじゃないか、何もできないことがバレるんじゃないか…周りから見たら『何をそんなに気にしているんだ』という感じだったと思いますが、当時の私は余裕がない人生を送っていました。何もできないくせに高慢でしたから、好かれる要素は全然なかったと思います。

 

現在の私は、一日の行いを悔い改めて少しずつ自分の心を清め、聖書を読み、賛美をし、一日の終わりに祈りを捧げる…そんな毎日を過ごすよう勤めています。

もちろん、仕事をしていますので、うまくいかないことも多いです。時間が十分取れなかったり、祈りが深く入らなかったりすることもあります。

しかし、そこでやめたり、諦めたりせずに続けることが大事だと、今までの経験から学びました。

私の魂は、以前はサタンの支配下にありました。おそらく、その姿は飢え渇いて見すぼらしく、貧相で目もあてられない状態だったと思います。その、魂の貧困が私個人の至らない人間性に表れていたのだと思っています。

それが、ラプトさんに出会い、サタンの支配下から脱出し、有料記事で神様の御言葉に出会い、栄養をいただいて私の魂は息を吹き返すことができました。

魂が貧困から脱した結果、私の生活にも少しずつですが変化が出てきました。

まず、以前より笑顔が増えました。また、できないことをできないと素直に認め、できるよう努力する姿勢が身についてきました。

身のまわりのささやかな喜びにとても感動するようになりました。自然は美しさに溢れていると、今さらながら思います。f:id:jigemon2019:20191006221521j:image

(写真は大分県の岡城跡です)

また、聖書を5回ほど通読したのですが、最初は難解だった内容が、ラプトさんの解説もあり、意味がわかるようになってきました。

新約聖書には亡くなった人が生き返る描写がたびたび出てきますが、新約聖書は例えで書かれていることを踏まえると、『信仰を見失っていた人が再び信仰に立ち返る』あるいは、『霊的に死んでいた人の魂が、神様と出会うことによって息を吹き返す』ことの例えではないかと悟ることができました。

このような内面の霊的な変化が、次第に肉的な変化となって表れてきたのです。(続く)